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zoom RSS 大徳寺 高桐院(こうとういん)

<<   作成日時 : 2007/08/26 10:52   >>

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『大徳寺 高桐院(こうとういん)』

武将-細川忠興(ほそかわだだおき)=茶人-(三斎忠興)

今回は、武将-細川忠興とその妻である細川ガラシャ【※1】が眠る「高桐院」をご紹介したいと思います。

京都市北区柴野の大徳寺には21の塔頭寺【※2】があり、その1つが高桐院です。
落葉が降り積もる秋は風情豊かな、秋の紅葉の名所として知られる高桐院は、戦国武将で茶人の細川忠興(ほそかわだだおき)が父の藤考(幽斎)の菩提所として1601年に建立した細川家の菩提寺です。
庭は、「楓の庭」と呼ばれる簡素ながら趣のある庭で、一面の苔地の中に一つの灯籠が置かれている。

細川忠興は、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後(現在の熊本県)細川家の基礎を築いた人物で、冷徹さと気性の激しさは戦国武将の中でも織田信長に負けないほどだったとか。

中でも、私達に関係あるのが、妻の細川ガラシャ(明智光秀の娘)の美しさに見とれた植木職人を手討したという。
私も同じ職業として、これは痛いエピソードです(苦笑)

それほど、妻を愛していた(変愛)忠興は、他にも浮気されないように愛妻ガラシャの部屋に火薬を仕込んでいた、という記録もあるそうです。
そこまでしなくとも・・・。

そんな、行動とは裏腹に、歌道、能楽、絵画など多方面に通じ、とくに茶の湯は、千利休【※3】の優れた弟子である「利休七哲(りきゅうしちてつ)」【※4】の中の一人として知られる。

その中でも特に利休にかわれていたのが、古田織部【※5】、細川忠興だったようです。
古田織部の自由奔放な作風と正反対に、忠興の作風は、利休の教えを忠実に継承。のちに「細川三斎茶書」という茶の湯の著書を残しています。

大徳寺 高桐院には千利休の邸宅を移築した書院【※6】「意北軒(いほくけん)」があります。
茶室【※7】「松向軒(しょうこうけん)」は、皮肉にも武士としては君主にあたる、豊臣秀吉に、茶の湯の師匠の千利休が殺されますが、この茶室は秀吉が北野で大茶会を催したときの茶室。忠興が建てた利休好みの茶室のようです。

観覧のポイントとしては、表門から自然石の敷石道を歩いて唐門に続く道「仏の道」が人気で、独特の雰囲気があります。

あと、豊臣秀吉の家臣加藤清正【※8】が朝鮮王城の羅生門礎石【※9】を持ち帰り三斎へ贈ったとされる、「袈裟型おり蹲踞」【※10】。
おり蹲踞は地表低く納められているためこう呼ばれている。
三斎はこの蹲踞を熊本〜江戸への参勤交代【※11】の時にも持ち歩たほど気に入っていたとか。

南庭は、江戸初期の造園で、楓樹中心であるが、竹林の背景とのコラボレーションがよい。

最後に、高桐院には細川三斉他、細川家代々のお墓があるのですが、細川忠興と細川ガラシャの墓があり、忠興の墓塔は春日灯籠【※12】となっています。

この石灯籠の別名は「欠(かけ)灯籠」「無双」といい。
元々は千利休の御宝で「天下一の灯籠」だったのですが、豊臣秀吉と細川忠興とが欲しがったのですがので、「天下人に似合わぬと」利休はわざと笠(かさ)の裏面三分の一を割って(欠いで)疵(きず)物と称し、秀吉に諦めさせたといわれる逸品。
千利休が切腹の際、改めて細川三斉に遺贈されました。

細川三斉が亡くなる三年前、忠興は熊本からこの、生前愛好した石灯篭を高等院に送って、墓石にするよう命じた。(83歳没)
妻、細川ガラシャの死から45年後のことでした。


大徳寺 高桐院
 住所 京都市北区紫野大徳寺町73-1
 電話番号 075-492-0068 拝観時間 9:00〜16:30
 拝観料 400円   

    

--おまけ--

細川ガラシャの有名な、死ぬまぎわに残された詩=辞世(じせい)が残っています。
細川忠興(細川三斉)が死ぬまぎわにも、このすばらしい歌がよぎったのでは
ないでしょうか?

「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

                        細川ガラシャ/明智 玉

ちなみに、この詩は、時の総理大臣が良く使います。
小泉首相と同じく高支持率を維持し、1998年に議員を辞職した細川家の子孫である細川護煕(もりひろ)首相が、議員辞職の会見でこの句を引用したのが最初で、次は。

時は2006年、首相主催「桜を見る会」では、この細川ガラシャ詩の後に、

「花はぱっと散るからきれいだ。私も引き際、散り際を大事に、職責から逃げることなく頑張っていきたい」と締めたのは

小泉純一郎首相でした。



■今回の用語集

【※1】細川ガラシャ 1563-1600
明智光秀の娘。細川忠興(ただおき)の妻。本命は「たま」でガラシャは洗礼名。織田信長の命により、忠興に嫁いだ。3子を生んだ。本能寺の変で離縁されたが、豊臣秀吉のはからいで復縁。関ヶ原の戦いの際、石田光成に人質として大阪城に入るよう強要されたが承知せず、家老の小笠原少斎に胸を貫かせて38歳の生涯を閉じる。

【※2】塔頭寺/塔中(たっちゅう)
本山の横にある小さな末寺。本寺の境内にある小さな小寺・脇寺。寺内寺院。
禅宗で祖師の遺徳をたたえてたてた小院。

【※3】千利休(せんのりきゅう)1522-1591
安土桃山時代の茶人。わが国茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎(じょうおう)に学び、詫茶(わびちゃ)を完成。
織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の怒りに触れ自刃。

【※4】利休七哲(りきゅうしちてつ)
千利休に茶の湯を学んだ弟子たちのなかで、とくに優れていたとされる7人を指していう。
蒲生氏郷・芝山監物・瀬田掃部・高山右近(重友)・古田織部(重然)・細川忠興・牧村利貞。

【※5】古田織部(ふるたおりべ)1543-1615
安土桃山時代の茶人。茶道織部流の祖。名は重然(しげなり)。美濃の人。千利休(せんのりきゅう)の高弟。初め豊臣秀吉に仕えて同朋。秀吉の死後隠居し、茶道三味の生活に入った。茶匠としての名声があがり、関ヶ原の戦いには徳川方に功がありとして大名み復した。徳川家の茶道師範と称されたが、大阪夏の陣で陰謀を疑われ自刃。

【※6】書院(しょいん)
中国古来の用語で、書庫、書斎の意味ですが、日本では鎌倉時代に書見し、あるいは、学を講ずる場所となったが、のちに客を応接する対面所をいうようになった。

【※7】茶室(ちゃしつ)
茶会に用いる室。古くは茶湯座敷・数奇屋・囲(かこい)などといい、茶室と呼ぶようになったのは江戸時代以後。4畳半を基本とし、3畳・2畳、あるいは台目畳を用いて最小1畳台目まである。4畳半以下を小間、以上を広間といい、4畳半は両方を兼ねる。茶室。

【※8】加藤清正(かとうきよまさ)1562-1611
安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助。賤ヶ岳の7本槍(しずがたけのひちほんやり)の一人。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し肥後国(現在の熊本県)を領有。

【※9】礎石(そせき)
建物の基礎となる石。礎(いしずえ)となる石。転じて、ものごとの土台や基礎のことをさす。

【※10】蹲踞(つくばい)
茶庭の手水鉢(ちょうずばち)/手洗い鉢。石の手水鉢を低く据えてあって、茶室の入口付近に設けられ、手を洗うのに茶客がつくばうから言う。
武野紹鴎(じょうおう)や千利休(せんのりきゅう)らによる。
侘茶(わびちゃ)のもつ謙虚の精神から、草庵(そうあん)の成立と同じ意味で、貴人でも身をかがめて手水を使う定めとなったのに始まる。
初めは手水鉢と前石を置くだけだったが、露地の発達にしたがって、石組を模すなどの傾向がされるようになった。

【※11】参勤交代(さんきんこうたい)
江戸幕府が諸大名や旗本に課した義務の一つ。原則として隣年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統治下に入る制度。

【※12】春日灯籠(かすがどうろう)
春日神社の灯籠の形式。石灯篭の代表的形式
火を灯す所に、雌雄の鹿・日月などを浮彫にする。庭園で呼ばれるのは二の鳥居付近に立つ形式。






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