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『作庭家偉人伝-源融(みなもとの とおる)822年-895年』 第一部を見てない方はこちらへ 源融と言えば、一番有名なのは、『源氏物語』における「六条院」のモデルとなった東六条の「河原院」で、都で1、2位を争う大邸宅だったとされています。 そこに広大な庭を築いたのは彼が左大臣に任命された頃(推定872年) そのお屋敷の壮麗なことは、当時から世に聞こえ、融自身も「河原の左大臣」と呼ばれていたほどでした。 陸奥国の「塩釜の浦」(宮城県松島湾)の景色を庭に移したいと思い立ち、数百万人の役夫を雇い、なんと難波(枕崎-尼崎の琴浦神社の祭神は源融)からわざわざ毎日三十石の海水を運ばせて池に本当の潮水を満たし、塩竃(しおがま)を庭に築き、塩焼をさせてその景色を楽しんだそうです。 しかも、水底には、海に住む魚や貝が飼われていたとか。 さらに、塩を焼く者たちに、陸奥塩竃の住民の姿をさせた。 庭に海岸風景を写すのは、奈良時代からやってるので珍しいことではないのですが、実際に海水を運ばせ、庭で塩竃で塩を焼くとはは当時としても新しく革命的なことでした。 本物以上に本物らしく見せる、源融の執念?としか言いようがないです。 この流れは、江戸時代に潮入り式庭園【※10】へとつながって行ったと言っても過言ではないはずです。 当時の都でも、噂が噂を呼び、今で言うテーマーパークという感じでしょうか? 京の都の人々は競ってこの庭を見にきたといわれています 陸奥国の「塩釜の浦」=一度は行ってみたい都人の憧れとなって行きました。 ちなみに、この庭が源氏物語の夕顔が変死を遂げた「なにがしの院」のモデルになった邸の庭ともいわれています。 現在でも京都下京区には地名で本塩竈町、塩竈町、また塩竈神社(本覚寺)があったり、塩竈山(えんそうざん)上徳寺という寺があったりと、塩竈の名が見られます。 その他、塩を運ばせたと思われる道が、塩小路という地名で残っています。 源融の死後、河原院は息子の昇が相続、のちに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に源融の霊が現れたという逸話も残されています。(今昔物語集【※11】) 能「融」も源融の霊が出てきますが、美男子だった影響でしょうか? いずれも恨みという感じよりも、綺麗な幽霊といった感じのようです。 宇多法皇が亡くなってからは、「河原院」もすっかりと荒れ果ててしまいます。 何年かあとに訪れた紀貫之【※12】はこの荒れようを惜しんで、 「きみまさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな」 (古今和歌集【※13】) という歌を残しています。 その後、河原院は寺になって、歌人で源融の曾孫に当たる安法君という僧が住み天皇家から源融の子孫に再びお下げ渡しになったようです。 しかし、1203年の火災によりこの世から姿を消すことになります。 源融はなぜ?そこまで河原院の庭を作られなけえればならなかったのか? という疑問が残ります。 塩竃というぐらいなので、煙が立ち上っていたらしく。 どうやら、道教【※14】の神仙思想【※15】とも繋ながるのではないかという説もあるようです。 神仙思想とは中国古来の思想で、天空近くの雲の上に仙人が住み、不老長寿の薬を持っている、みたいなものですが、確かに、仙人が住むとされる所は煙というか雲の上で霧がかかったような霞(かす)んだ所だと想像できます。 鳥山明の漫画「ドラゴンボール」でも高い雲の上にまである塔の最上に神様がいて孫悟空が修行をしていたのを思いだします(笑) ちなみに、源融が眠る「棲霞観(せいかかん)」「棲霞」の意味は「霧(かすみ)のなかに潜む」という意味で、「観」は道教の寺院を指し、天近くに建てられたという意味になるそうです。 生前の、遺言で「死後も国家を守護するためにこの地に葬るよう」と言っていたので遺族がそこに御堂を建てられたようです。 この地は父の嵯峨天皇から融がゆずり受け、別荘があった場所でした。 最後に、河原院の他にも源融の別荘がありました。 宇治の別荘は、のちに藤原道長・頼道の所有となり、あの有名な10円玉に載っている平等院となります。 河原院-址(あと)は2箇所あるのでご紹介します。 一番有力とされているのは榎の木の下に、現在石碑しか残っていないようです。 気分的には、渉成園の方が味わえるかもしれません? ※明治以降の発掘調査により渉成園=河原院説は夢幻となりました。 ■今は石碑しか残ってません。 京都市下京区下数珠屋町通間之町東入東玉水町 ■渉成園(しょうせいえん)(別名:枳殻邸/きこくてい) 真宗大谷派 東本願寺の飛地境内 京都市下京区正面通間之町東玉水町 641年、徳川家光から東本願寺に寄進され、1653年、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭された。 ---今回の用語集--- 【※10】潮入り式庭園 海岸、河口近くの河岸に設ける平庭、池泉をひろくとり、海水を引き込み、その干満により景色を変えることができる。広島の縮景園、和歌山県の温山公園、東京の旧浜離宮、旧芝離宮の庭園、清澄庭園など。 【※11】今昔物語(こんじゃくものがたり) 日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立。全31巻(うち28巻現存)その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」とよばれ略して「今昔物語」という。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3/1以上をしめ、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。 【※12】紀貫之(きのつらゆき)868?-945? 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。「古今集」編纂の中心的役割を果たし、その「仮名序」は日本最初の歌論である。歌風は理知的・技巧的で繊細優美な古今調を代表している。晩年の著「土佐日記」は平安朝日記文学の先駆をなした。歌集「貫之集」。 【※13】古今和歌集(こきんわかしゅう) 略称「古今集」20巻。歌数約1100首。醍醐天皇の勅により編集を始め、905年撰進された。紀貫之・凡河内躬恒、紀友則・壬生忠岑らにより、「万葉集」に入らなかった古歌とそれ以後の新しい歌を集大成したもの。 【※14】道教(どうきょう) 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道化の流れを汲み。これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢の末に仏教の教理を取り入れて生長。唐時代が全盛期。民間宗教として現在まで広く行われている。 【※15】神仙思想(しんせんしそう) 中国古来の神秘思想。山東省の神山の信仰に端を発し、不老長寿の薬を求め、煉丹術を生んだ。のちに道教の中ににとりこまれる。 |
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